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2008年05月15日

2.いわし漁-その2-

以下祖母の日記。長いので解説はその3に。
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鰮漁の舟出は、大てい午後の四時か五時頃であったように記憶している。
時には朝置きといって、朝早く漁に出ることも間々あった。
つぎの出来事は昼間のように覚えているので、朝置きの鰮漁の時のことで
あったろう。

其の日、父の網には漁が少なかったためか、母は私をつれて近所の
舟小屋へ手伝いにいった。舟小屋に引き上げられた舟の両側にいて
舟の中から網をたぐり出しながら、銀色に光った鰮をはずしていくさまは、
今から思えばなんとまあ、のんびりした仕ぐさであったろうか。

そんな仕事は私たち子どもにとっては、あまりにも悠長で甚だつまらぬ
とても待ちきれないものであった。
私は母のそばに居るのがとても退屈になり、母の前掛をしきりと
引っぱった。

その当時の子どもは殆ど、大勢の人の前では自分の意思を言葉で
いい表すことを恥ずかしく思っていた。或いはそのように
躾けられていたのかもしれない。

私のその様子を見たのであろうか、その家の小母さんが
「うちへ上って遊んでこいな、おしず(仮名)が居るで。」と言って、
私をうながして家につれていってくれた。
戸袋のある大きな白壁の家であった。

其の家には私より三つ年上のおしず(仮名)という女の子がいた。
母親によく似て、気だてのやさしい子だった。
当時としては中々口にすることの出来難い菓子などを持って出ては、
誰かれの区別なく子どもたちによく与えていた。
私が黒砂糖をおやつとして食べたのも、この女の子からもらったのが
はじまりであった。

私はその女の子と部屋の中で何をして、どれだけの時間遊んでいたかは
記憶に残っていない。
にわかに縁側に足音がしたかと思うと、いきなり障子が開いて、
頭髪も顔のひげも白くなったその家のおじいさんが部屋に入ってきた。
村の人は其のおじいさんを「旦那さん」と呼んでいた。

その旦那さんが部屋に入ってくるなり、私を見て
「お前は、えんだの子でないか。(えんだは私の家の屋号)
 この家は、お前のくるような家でない。
 いね(帰れという言葉)。」
と、さもにくたらしそうに、しわがれた声でどなった。

私は、こわさで舟小屋に母が居ることも忘れて、赤い鼻緒の草履を
はくこともせず、手にかゝえて、くぐり戸をぬけて外に出るなり
「わあッ。」と声を出して泣き、家に走って帰った。
帰っても家には誰もいなかった。
それからの記憶は残っていないが、おそらく前の畑に出て、
蝶などでも取って遊んでいたのではないだろうか。

其の晩、私は祖母と同じ床に寝た。私が祖母と寝るのには、
それなりの理由があったのである。
それは祖母がかならず私が眠りにつくまで一つか二つの昔話を
きかせてくれることであった。

「おばあ、今日な、旦那さんが、おしず(仮名)さんの家で遊んどったら
 『お前の来る家でない、いね。』といって、私をおい出したで。」
というと、祖母は
「お前がなにか、わるさしたんだないか。」といった。

「ううん、なんにも。ほんまになんにもせんのに、いねというたで。
 なんでだえ、なんでだ。」
と、祖母にしつこくきくと、
「うちが貧乏だからだろう。子どもに罪はないのに。」と、いった。

祖母との間に、そんなやりとりがあって暫くしてから、私の額に
あつい祖母の涙が流れてきたことを忘れることが出来ない。

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解説はその3に。

投稿者 Taniguchi : 18:45

2008年05月12日

2.いわし漁-その1-

この項は長いので、その1とその2に。
以下祖母の日記。
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次の出来ごとは、私に物心がつき、その貧しさを私の身で
受けとめるようになってからの、忘れることが出来ない一つの出来事である。

肌をさすような港の冬も過ぎて、春も半ばになると、村は鰮(いわし)漁で
湧き立ってくるのだった。其の前に鰮漁について、説明しておかなければ
ならない。

その当時の鰮漁といえば今とは全く異なっていて、四角に編んだ網を海に
投げ入れ、その網の目に鰮の頭をつっこませて捕る「さし網み」という
漁法であった。その網は、巾三m丈四mほどもあったろうか、
まむし糸(木綿)で編んだもので、その網を海中に入れ、その網をまた
引きあげて鰮をとるという方法である。

古めかしい漁法ではあるが其の当時の伊根の漁村にとっては、
この鰮の収入が一年の上半期(三・四・五・六・七・八月)の生活を支える
大きな収入になったのである。
随って(したがって)この網を一かわ(一流)つくるのに資金も相当かゝり、
そうたやすく購入出来るものではなかった。

漁にでたら、普通一回の漁にこの網を五かわ、時にはもう少し多く海に
投げ入れた。漁師はこれを置くと言っていた。
鰮のよくとれる時期などは、全部の網にしっかりと鰮がかゝり、網を舟に
引き上げると鰮の重みで舟が半分位も沈み、時には舟、人ともに
沈むという危険なこともあって、一かわニかわ海に切り捨てゝ帰ることも
あった。

舟が鰮を積んで帰ってくると、今度はこの網の目にかゝった鰮を一匹一匹
はずさなければならない。これがまた大変な仕事で、その為隣近所の人は
早く済んだ家から家へと手伝って歩くのが、この当時の道義的な
ならわしであった。

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その2に続く。

投稿者 Taniguchi : 16:48